写真提供:折橋大貴
新型コロナウイルス(以下、「新型コロナ」)の感染が拡大していた2021年1月、福岡のある飲食店が、食事中の会話を控える「黙食」を勧めるポスターを作成・配布したことが話題となりました。それ以降、様々なお店で黙食を勧める掲示が増えてきています。
ところで、この黙食という概念、実は仏教には古くからあったということをご存知でしょうか?
禅宗、特に曹洞宗の修行道場では、坐禅堂・風呂・トイレで余計な言葉を発してはいけないという規律があり、それが坐禅堂で行う食事にも当てはまるため、必然的に黙って食事=黙食となっているのです。
そんな曹洞宗の黙食について、話題の黙食ポスターと絡めたコラムを執筆したお坊さんがいます。神奈川県にある曹洞宗・養食山常泉寺の副住職であり、フレンチの料理人でもある折橋大貴さん(32歳)です。
今回は折橋さんに、古くからある黙食とは一体どのようなものなのか、そしてニューノーマル時代に一般生活者は黙食とどのように付き合い楽しんでいけばいいのかを、伺ってみることにしました。
仏教用語としての黙食とは
──ポスター制作者は子どもの頃に給食指導で黙食という言葉を聞き、今回それを採用したとのことで、元ネタは仏教用語なのではと推測しているそうです。折橋さんとしては、この言葉が世間で話題になりどのように感じましたか?
折橋さん(以下、敬称略):ニュースで黙食という言葉を聞いたときは、まず懐かしい感覚を覚えましたね。私は仏教系の高校で15歳のときから黙食の考え方を学んでいて、大学卒業後の3年半は道場にいましたので。道場を出てからは、家庭や団らんの場で食事をとることもあり、そういった場では黙食せず普通に話したりもしていました。
あとは、ポスターを作ってみなさんに注意喚起するところまで思いつかなかったので、ちょっとだけ悔しいなとも思いました(笑)。
──それでは、仏教における黙食の解説をお願いいたします。
折橋:曹洞宗は、今から800年近く前に道元禅師により日本に伝えられたのですが、道場内の坐禅堂(食事や就寝も行う場所)・トイレ・風呂での私語を禁じています。日常生活はすべて修行と捉えられていて、物事に真剣に向き合うため、何かを行う際に複数のことを同時並行してはいけないのです。
──「ながら」が禁止なのですね。現代人は「ながら」をしてばかりですが……。
折橋:学生生活に例えれば、勉強をするなら勉強に集中、遊ぶなら遊ぶことに集中しなさい、ということですね。食事の際には食べることに集中して、お風呂に入るのであれば体を温めたり洗ったりするのに集中することが修行となるわけです。
黙食のルールや作法について
──黙食のルールや作法とは、どのようなものなのでしょうか?
折橋:道場での食事は、朝食がおよそ6時半から7時ごろ、昼食が11時半ごろ、夕食が16時45分ごろ、となっています。食事の際にはお経を唱えるのですが、よく唱えられるものとしては「五観の偈(ごかんのげ)」が有名です。
法事が入っている日、忙しい日などもありますので、正確に何時に始まると決まっているわけではありませんし、食事時間が15分と短いときもあります。ただ、どんなに食事時間が短くても、お経は必ずお唱えしますよ。
──誰がどのようなメニューを作るのでしょうか?
折橋:食事作りも、持ち回りで修行僧が行っています。メニューは、朝ごはんがお粥・漬物にごま塩のふりかけくらいで、昼と夜が一汁二菜の食事です。
──五観の偈とは、どのような意味のお経なのでしょうか?
折橋:五観の偈は、簡単に意訳すると、以下のような内容になります。
一つ、この食事が自分の前に並ぶまで、多くの人の手を経ていることに感謝しよう
二つ、自分は今この食事をいただけるほど、日々精進しているかどうか反省しよう
三つ、空腹でもイライラせずに好き嫌いをしないようにしよう
四つ、食事は命をつなぎ、健康な身体を保つための薬である
五つ、自分の役割とは何か、食事をいただくのは自分の目的を達成する為である
こうした言葉ができた当時と違って、現代は飽食の時代ですし、自分で食材を確保したり料理をしたりしなくても、コンビニやレストランで出来合いのものを食べられるので、過程について考える機会が減ってしまっています。そうすると、五観の偈の内容がスッと入りにくいところもあるだろうなと思います。
──修行の一環で食事作りを経験するのも、修行僧が五観の偈をより理解するのに役立っていそうですね。
折橋:大本山と呼ばれる道場には修行僧が数多くいて、食事作りの役を経験しないまま下山する修行僧も沢山います。
ただ、一昔前は便利な調理器具もなく、薪を炊いたりしないといけなかった。そうなると台所に必要な人数も増えますから、必然的に食事作りに携わる人数は多かったのではないかと思います。
結果的に、命に触れて関わる経験は現代の修行僧より遥かに多く、五観の偈の内容がすんなりと入りやすかったのではないでしょうか。
──他にも、道場での食事に関連した、独特な点などはあるのでしょうか?
折橋:応量器という漆塗りの食器を使うんですが、洗剤を使って洗わないんですよ。熱湯と、ヘラの先に布を巻いた刷(せつ)という道具で汚れを落として、最後に布でふきとります。
洗剤のない時代に誕生した食器なので当時の洗い方を踏襲しているんですが、道場では動物性のものを含んだ食事が出ないので、熱湯だけで落とせてしまうんです。
修行僧にとって食事は「刺激的」?
これまで会話をしながら楽しんでいた食事。いきなり「黙って食べなさい」と言われても困ってしまう人、間が持たない人がいるだろうことは想像に難くありません。
修行僧はどのようなことを考えながら食事をとっていたのでしょうか。
──食事中、折橋さんや周りのお坊さんはどのようなことを考えたりしていますか?
折橋:修行を始めたばかりの修行僧ですと、お寺の作法についていくのが必死で、何かを考える余裕はありません。作法を覚えて自然に食事できるようになるまで、1〜2カ月程度はかかります。
修行生活になじむと視野が広がってゆとりが出てきますが、食事中に「このあと何をしよう」などと考えることはほとんどありませんね。無音の空間で、みんな味に集中していますよ。周りの人の箸が食器に当たる音もうるさく感じるくらいの空間です。
──「この料理はおいしかった」「今日のはおいしくない」など味への感想を持つことはありますか?
折橋:思わないこともありませんが、作っていただいたものを残さずいただくということが何よりの修行ですので、野菜が焦げていても生煮えのものがあっても、ありがたくいただいております(笑)。
折橋:味といえば、修行僧が修行を始めてから最初に恋しくなる食べ物って何だと思いますか?
──何でしょう……やはり肉ですか?
折橋:それが、甘味なんです。この間まで学生だった修行僧が多いので、みんな牛丼やハンバーガーが恋しくなるかと思いきや、チョコとかの方が食べたくなるんです。人間、底の底まで疲れると、体が欲するのは糖分なんだなと実感しましたね……。「飴玉をくれた参拝者のおばちゃんが女神に見えた」と話す修行僧もいました。
──お米をよく噛むと甘くなる感覚があると思うんですけど、そこに活路を見出す方もいるんでしょうか?
折橋:そうですね。朝ごはんのお粥の甘さを感じるために、わざとごま塩をとらないようにする修行僧もいたくらいです。私も結構そういうタイプでした。
道場は新聞もなく、スマートフォンの利用も認められません。極端に娯楽が少ない環境なので、脳みそは情報を欲して感度を上げていくようなんです。自衛隊員が潜水艦に乗ると「食事しか楽しみがない」と言うそうですが、感覚はそれに近い気がします。ルーティーンだらけの修行の中で、変化があるのは食事くらいなので、強い刺激になるんだと思います。
──そういった状態なら、他のことを考えるまでもなく食事そのものに集中できそうですね。
黙食とコミュニケーションは両立できるのか
一人の外食と複数人の外食では、黙食の意味合いも異なってくるものです。一人で外食する際には客としての自分とお店の方とのコミュニケーションが、複数で外食する際には同席の方とのコミュニケーションが失われてしまいます。
僧侶は会話によるコミュニケーションが少ないことをどのように感じているのでしょうか?
──修行中、人的コミュニケーションが少なくて寂しいと思うことはありますか?
折橋:道場内であれば寂しいと思うことはありません。24時間同じ屋根の下にいて、「人がいなくて孤独だ」というわけではないので。現代の社会生活とはだいぶ状況が違いますね。
それに、食事しながらしか話せない会話というものも特にありませんし、私語でなく修行生活に必要な申し送りに付随する形で、同期と喋ることはありましたよ。
──なるほど。修行以外のお話も伺いたいのですが、コロナ禍で一般の方向けに食事系のイベントを開催する際、参加者の方はどんな様子でしたか? 食べながら話せないですよね。
折橋:私のお寺では、朝粥の会という月一の行事があります。緊急事態宣言中は休止しますが、そうでないときは密にならないような空間や場づくりをしながら行っています。
コロナ禍以降、黙食していただくスタイルに切り替えたのですが、「調理方法などを考えてみてください」と事前に投げかけると、みなさん食べながら考えるようになります。考えることって集中することなので、会話はかえって邪魔になることもあるんですね。結果的に、食べながら話せなくても、行事を楽しんでくださっているようです。
──食事に集中する方法、参考になります。他に、個人でできるような、黙食でも食事を楽しめる工夫はあるものでしょうか?
折橋:不要不急の外出を避けなければいけなくても、外食をしなければならないときはあります。私はそんな時、お店や料理の感想を一筆箋などに書いて、会計時にお渡ししたり、テーブルに置いて帰ったりします。次に訪れた際に、そのことを覚えていてくださることもあるんですよ。
自分自身、料理講師として料理のイベントを開催することもあるのでわかるのですが、提供する側は感想をいただけることがとても嬉しいんです。
──そういったコミュニケーション方法もあるのですね。
折橋:移動時間が減るなどして以前より時間が余っているので、できるだけ、「こうなったら楽しいのではないか」ということを考えるようにしていますよ。大きな震災があったときもそうですが、人間の負の感情は大きな声として出やすいですし、世の中にもよく通ってしまいます。でも、そればかりでは暗くなってしまうじゃないですか。
「この麻婆豆腐はおいしかったな」「家で作る味とどうして違うのだろう」なんてことを考えられるようになるといいですね。黙って食べなければならないなら、「目の前の食べ物にしっかり向き合ってみよう」と、食べること自体を楽しむところから始めてみるのはいかがでしょうか。
新型コロナが収束して世の中が少し気楽になってきたら、様々な楽しみ方を使い分けるようにしていければ良いのではと思います。
視点を変え、楽しい黙食をしてみよう
外食の際には、その食材やレシピについて、自宅や自分で作るものと比べて考えてみる。
お店の人に感謝や感想を伝えるようにする。
これらのことを新型コロナがまん延する以前にどれだけできていたかと考えると、確かになかなかできていなかったような。
黙食を不便なだけの取り組みと捉えるのではなく、今まで気にかけていなかったことを考えるチャンスと捉えられば、新たに得られるものがあるのかもしれませんね。
書いた人:奥野大児
馴染んだ店で裏メニューを頂けるのが至高と思っている呑兵衛ライターでブロガー。店主と仲良くなるのが得意らしい。グルメ、旅、歴史、IT、スマホなどなど多ジャンルで書きます。
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