日本語は、同じことを言うにも尊敬語、謙譲語、丁寧語と相手の立場によって使い分ける必要があるが、他の言語では、話す側のステータス(社会的地位)によって使う言葉が違っていることも多い。米国などでは誰に対してもフランクに単純な言葉を使っているように思われるが、名のある大学の卒業生の発音には、その大学特有の特徴があるという。
属する階級や仲間によって違う言葉遣いをする例は、日本語にも勿論(もちろん)ある。よく言われるものに、中世以降、宮廷につかえる女性たちが使っていた「御所言葉」があげられる。今でも京都弁には御所言葉も交じっていて、これは初めて耳にすると一寸(ちょっと)理解しがたい。
日本語には、ひらがな、カタカナ、漢字の使い分けもある。漢字はもともと中国から伝わったものであり、中国の発音を起源にした音読みのほかに、日本の言葉をあてる訓読みもあり、それ以外に日本でできたものもある。
例えば「命」。音読みで「めい」。訓読みで「いのち」だが、「い」は生きる、「の」は生きていくためののぞみ、「ち」は親から与えられた血であるという考え方がある。人には、この3つが天命、運命として備わっていることを認識してほしいと、私も思う。
最近は、「生きる」ために与えられた「いのち」ある自分を大切にしない人が増えているようで、世を儚(はかな)んで自らを死に至らしめる人々が多い。さまざまな事情もあろうが、何故(なにゆえ)、「親から与えられた」自分の存在価値を尊く思うという、大切なことをなおざりにするのだろうか。
人は悩んでいるときには周りが見えなくなり、自分の殻の中で堂々巡りの状態に陥るものだが、ほんの少し他の人を頼ることをすれば、「のぞみ」を持てることはかなり多いであろう。この頃は、ひたすら悩みを聞くことで手を差し伸べているグループも多くあるようだし、話をし、聞いてもらうことによって自分自身の整理もできる。その先に、解決の道筋が見えてくることで自分自身の価値判断もできると思う。
この世の中は、嫌なことも多く、苦しみや悩みの中で生きていかねばならない。
釈尊は三法印(さんぼういん)という教えを示された。「諸行無常(しょぎょうむじょう)」は、全ては思うようにいかないのが世の中だということ、「諸法無我(しょほうむが)」は自分の我(が)が通じることは少ない、むしろ我が全てを台無しにすることもあるということを教える。「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」は生きていれば死ぬことは当然で、如何(いか)に静かに死ねるかを問うている。
そしてもう一つ「一切皆苦(いっさいかいく)」を加え、四法印(しほういん)ということもあるが、これは生まれてから死ぬまで人間は苦しみがあって当然であり、それを乗り越える心がけが必要だと説いている。難しい教示である。解釈は人によって異なることもあろうが、たとえ楽しみや喜びがあっても一生の中ではほんの瞬時のものであることをしっかり知っておくことが肝要である。(せん げんしつ)
【一服どうぞ】苦しみ悩むのが人間 裏千家前家元 千玄室 - 産経ニュース
Read More
前
No comments:
Post a Comment