---------- 4月12日に発売される『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀氏が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し、「現代ビジネス」に寄稿、配信された記事のなかから、主に反響の大きかったものを選んで「紙の本」として再構成したものである。そこに掲載された記事に関連するエピソードをいくつか紹介する。 ---------- ---------- 第3回は、本書第一章「真珠湾攻撃に参加した隊員たちがこっそり明かした『本音』」に関連して、ちょうど80年前の昭和16(1941)年、攻撃に先立って真珠湾を偵察した海軍士官たちの、あまり語られることのなかったエピソードを紹介する。 ----------
目的は潜行しているスパイとの連絡
日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾攻撃(昭和16〈1941〉年12月8日)で太平洋戦争の火ぶたが切られる直前の10月15日、日本郵船の貨客船「龍田丸」は、盛大な見送りを受け、舷側に無数の紙テープをなびかせながら、横浜港を出港した。行き先はハワイ経由、サンフランシスコである。 「龍田丸」は、総トン数16,955トン、全長178メートル、航海速力19ノット(時速約35キロ)、旅客定員839名(一等239名、二等96名、三等504名)。昭和5(1930)年、北太平洋航路に就役して以降、姉妹艦「浅間丸」「秩父丸」(のち「鎌倉丸」と改名)とともに、「太平洋の女王」と呼ばれた豪華客船だった。 当時アメリカは、日本の南部仏印(現・ベトナム)進駐を機に、在米日本資産の凍結、対日石油禁輸、通商拒否などの対日強硬策を打ち出した(6月21日)が、日米の協議の結果、人道上の見地から人と郵便物の往来は続けられることになり、その交換船の一隻めとして「龍田丸」が選ばれたのだ。 日米関係は緊迫の度を増していたが、ふだんと変わらない出港風景。ただ、日本郵船所有を示す、黒地に赤線2本の煙突のファンネルマークが黒一色に塗りつぶされているのが異様だった。これは、万一のアメリカ政府による接収を避けるため、日本郵船の船としてではなく、日本政府が徴用した交換船という名目を立てるための措置である。 この船にはもう一つ、表に出さざる任務があった。アメリカ太平洋艦隊が本拠を置くハワイ・真珠湾の隠密偵察と、現地諜報員(スパイ)との連絡である。そのために、3人の海軍士官が、船員に化けてひそかに乗り組んでいたのだ。 すでに、昭和15(1940)年5月、アメリカ太平洋艦隊の主力がアメリカ西海岸・サンディエゴから、より日本に近いハワイに拠点を移したことを脅威ととらえた日本海軍は、さまざまな手段で情報収集にあたっていた。 情報収集(=諜報活動)は極秘裏に行われ、こんにちその全貌を把握することはむずかしい。だがその一端として、かつて日本海軍に空母の運用を指導、その後三菱に迎えられ、日本のスパイとなって活動していたイギリス空軍元大尉、フレデリック・ジョゼフ・ラトランドをハワイに派遣し、諜報活動をさせていたことが、近年、公開された英機密文書から明らかになっている。 ラトランドは小舟をチャーターし、真珠湾の米艦隊の動静を16ミリフィルムに撮影、情報を日本に送っていた。FBI(米連邦捜査局)が彼の動きに疑念を抱き、泳がせて拘束するタイミングを測っていたが、そのことはMI6(英秘密情報部)も察知するところとなり、ラトランドは1941年10月、イギリスに帰国したところを「敵対的行為」の容疑で逮捕、2年にわたり拘留される。 また、日本海軍は、健康を害して予備役に編入され、軍令部嘱託として、英国に関する情報収集の仕事をしていた吉川猛夫少尉(海軍兵学校61期出身。クラスメートはすでに大尉に進級している)を外務省に入省させ、「森村正」の偽名でホノルル総領事館の三等書記官として送り込んでいた。 出発に先立ち、情報を担当する軍令部第三部は、彼に当座の活動資金として6万ドル(当時のレートで25万6200円。少尉の俸給月額の3,660倍)もの機密費を手渡したとされる。「森村」こと吉川は、昭和16(1941)年3月27日、「新田丸」でホノルルに到着。以後、さまざまな手段を用いて諜報活動を続けている。 怪しまれないよう、日本料亭の仲居や芸者とドライブを楽しむふりをして港内を観察したり、芸者を連れて遊覧飛行を装い、上空から偵察したりするうち、地元の日系一世、二世の間では「かなりの遊び人」と噂がたったりもした。かと思えば、一晩中、1人で砂糖黍畑に身を潜めて港内を監視したこともあった。
【戦争秘話】開戦前、真珠湾を偵察した5人の海軍士官は何を見たのか(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース
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