「安楽死」を議論する前に、もっと見つめ直すものがあるのではないか。京都新聞とYahoo!ニュースの共同連載企画「安楽死と呼ぶ前に」を3回掲載したところ、多数の反響が寄せられた。筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者=当時(51)=に医師が薬物を投与し死なせた嘱託殺人事件の報道と同様に、「あんな病気になったら、私だったら死にたい」などと、安楽死を容認する趣旨のコメントが目立った。立岩真也・立命大教授は「私なら死にたい、と公言することはヘイトスピーチ」と指摘する。障害がある人たちの受け止めを聞いた。(京都新聞 岡本晃明) 【動画】透明文字盤で語る「100通りの生き方」
安全圏から発する言葉「犯罪的だ」
ALSは、全身の筋肉が徐々に動かなくなっていく難病で、息する力も衰えるが人工呼吸器を装着して10年以上暮らす人もいる。京都の事件で亡くなったALS女性は発症から7年、24時間介助を受けて独居生活を送っていた。自発呼吸はあり、人工呼吸器は装着していなかった。匿名SNSで安楽死を希望していた。 立岩教授は、京都ALS事件を受けたインタビューの中で、次のように述べた。 ―今回の事件で、ネット上には「自分だったら生きたいと思わない」といった匿名投稿が目立つ。 立岩 こうした言葉を発する人は、「自分のことを言っているだけで、他人を非難しているわけではない」と思っているかもしれないが、それは違う。もはやヘイトクライムと言っていい。困難な状況で生きている人に対して、「わたしはあなたの状態が死ぬほどイヤです」というのは、相当強い否定だ。例えば、なんでもいいですよ、「私がもし黒人として生まれたら、生きていられない、死んじゃう」とかね。相手の属性・状態を、命という非常に重いものと比較して、それに劣ると指摘するのは犯罪的だ。しかも、発言者は、目の前にそうした状況が迫っていて、明日にでも死を選ぶのか、と言ったら全然そうではなく、自分は安全圏にいて言っている。 ―死をどう迎えたいのか、自らの最期はどういう形が望ましいのか、素朴に言葉にすることはあり得るのではないか。 立岩 それはまったく否定しない。あってしかるべきだ。自らの「死に方」、というより最期の「生き方」について考え、語り、要望することは何らおかしなことではない。でも、ある状況を指して「自分ならこうしたい」と公言することは、常に他人を傷つける恐れがあることを意識するべきだ。自らの死について将来の望みを家族や病院の人に打ち明けることと、SNSなどで「自分はそうならない」ことを知った上で「そうなったら死ぬ」と書き込み、公言することはまったく違う。
【安楽死と呼ぶ前に】「私なら死ぬ」はヘイトスピーチ ネットに堆積する匿名の暴力 障害ある人の受け止めは(京都新聞) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース
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