「甘くみていた」-。平成30年の西日本豪雨で大きな被害を受けた広島県坂町小屋浦地区で住民福祉協議会会長を務める出下一教(いでしたかずのり)さん(72)は、あの日の油断を忘れられない。地区では砂防ダムの決壊で15人が亡くなり、1人が行方不明となった。地区には繰り返し水害が発生した歴史があり、住民たちはあの日もリスクがあることを十分理解していたはずだった。出下さんたちの判断を鈍らせたのは、西日本豪雨のさらに2年前にあった避難経験だったという。
「前の方が雨は激しかった」西日本豪雨の2年前の28年6月、地区は大雨に見舞われ、避難勧告が出たことがあった。近所の人々は誘い合って、避難所の一つとなっている小屋浦ふれあいセンターに駆け込んだ。このときは被害は一部家屋の損壊など小規模にとどまった。
だが、この経験が30年の豪雨で住民の避難の足を鈍らせることになるとは思ってもみなかった。あの日も激しい雨が地区を襲ったが「2年前の方が雨量は激しかった」と様子見の住民も少なくなかったからだ。
避難者は〝半減〟30年の西日本豪雨のあった7月6日、ふれあいセンターに避難していた住民は二十数人だったらしい。出下さんの記憶では、その2年前には40~50人が避難していた。西日本豪雨のときには、避難するタイミングを決めかねていた住民もいたとみられる。
その日、出下さんは幼い孫の様子を確認するため、近くの三女宅にいたとき、大雨特別警報が出たことを知った。避難しようと周囲の様子を見に行ったが、すでに道路には大木が横たわっていて、水がすごい勢いで流れていた。
三女宅に戻ったところで停電し「避難するのも危い状態になった」。闇の中で石がごろごろとすさまじい音を立てて流れているのが分かった。
翌7日午前4時ごろ。再び様子を見に外に出ると、川が土砂で埋まり、なくなっていた。代わりに道路が川のようになっていた。
豪雨2年前の避難経験で「甘く見た」後悔 - 産経ニュース
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